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自分も含めてアートや表現(やジャーナリズムや教育)に携わる人は、差別扇動を煽る側と煽られる側のメカニズムを知っておかないと、そうでない立場の人に比べて差別や虐殺や排他主義により強く加担してしまうことになる。どの歴史に学ぶべきかは目前や自前の聞き取られ難い声に尋ねるしかないと思う。
— ブブ・ド・ラ・マドレーヌ (@bubu_de_la_ma) 2017年5月5日
日本以外の地域の芸術の専門教育ではそれがきっちり押さえられていることを私は垣間見てきた。ある地域は抑圧してきた側として。ある地域は抑圧されてきた側として。あるいはその両方として。教師が教えない場合は市民の活動がそれを補っていた。https://t.co/6cIwon3Vt6
— ブブ・ド・ラ・マドレーヌ (@bubu_de_la_ma) 2017年5月5日
そうでしょうか?「マイノリティを傷つけ得る表現は差別なのでダメだがマジョリティを傷つけ得る表現は差別ではない」みたいなガバガバ反差別と表現ロジックになっているものも多いと思いますが。https://t.co/m36NUrapKF
— 柴田英里 (@erishibata) 2017年5月5日
@erishibata それももちろんあるでしょう。しかし私が書いたのは、「多い少ない」ではなく、差別扇動に加担しないという意志の表明が存在する事実があるということです。https://t.co/nBu4s3g57V
— ブブ・ド・ラ・マドレーヌ (@bubu_de_la_ma) 2017年5月5日